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国家が関与した冤罪事件「帝銀事件」平沢貞道は完全無実なのか?そして731部隊の関与は?

 

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帝銀事件の概要

帝銀事件」とは、戦後まもない昭和23年1月26日東京都豊島区長崎町の帝国銀行で発生した大量毒殺事件のことです。

「厚生省技官兼都防疫課員松井蔚」という名刺を差し出した犯人は「近くで集団赤痢が発生したのでGHQの指示で予防薬を飲んでほしい」と言い、犯人の指示のまま、16人の行員たちは第一薬、そして第二薬を飲みました。

]第二薬を飲み干した途端、行員たちは、嘔吐と苦悶におそわれ次々に倒れていき、12人が死亡しました。

犯人は、店内にあった現金16万3410円と額面1万745円の小切手を強奪して逃走したというのが、この事件の概要です。

 

 

毒物を使った完全犯罪

犯人は「第1の予防薬を飲んだら、1分ぐらい我慢してから第2の中和剤を飲むように」と指示しました。

第1薬では、胸が焼けつく強い刺激があったため、1分後、第2の中和薬が分配されると行員たちは競ってそれを飲んだということです。

通常、即効性のある毒物ならば、最初に飲んだ人が異変に気付き、他の人は飲まないことが考えられますが、犯人は何らかの方法を用いて1分間は絶命しないように計算していたのです。

第2薬を飲ませる時間設定までしていることから、犯人は毒物に対して高度な知識を持っていたばかりか、実際に死に至る状況を観察した者でなければ為しえない精度を持ち合わせていました。

 

逮捕されたのは画家「平沢貞道」

事件発生から7ヶ月後、毒物の知識も経験もないテンペラ画家の平沢貞通が犯人として逮捕され、拷問に近い過酷な取り調べの結果、犯行を自白しました。

しかし、起訴後は一貫して無罪を主張しつづけましたが、昭和30年5月7日の最高裁で上告が棄却され死刑判決が確定しました。

 

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画像出典帝銀事件ホームページ

 

これまで代々の法務大臣は死刑執行命令を出さず、死刑は執行されませんでした。

昭和62年、39年間を獄中ですごした平沢貞通は肺炎のため八王子医療刑務所で95年の生涯を終えました。

 

 

旧陸軍731部隊の関係者が捜査線上にあがっていた

数々の識者が、真犯人は別にいる、と考えています。

戦後GHQの支配下にあった日本で警察もコントロールできない大きな力によって平沢貞通は犯人に仕立て上げられたと考えられているのです。

毒物を使用した高度な犯行手口から、当初から警察は、元満州七三一部隊化学兵器開発の担当者と推測していました。

第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ「関東軍防疫給水部本部」(秘匿名称(通称号)満州731部隊:初代部隊長石井四郎)は、兵士の感染症予防などの防疫活動のほか、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発も行っており、死刑囚などを使った人体実験や生物兵器の実戦的使用を行っていたとされています。

731部隊では、ガラスで覆われたガス室の外から悶え死んでいく犠牲者を観察する実験などが頻繁に行われていたとされており、こうした実験から、薬物の扱いのほか犠牲者が死に至る過程を熟知していた者の犯行と考えるのが自然でした。

 

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なぜ平沢貞道が逮捕されたのか

当初から旧陸軍731部隊の出身者を中心に捜査が進められていましたが、一転して、これとは無関係の画家平沢貞道が逮捕されました。

逮捕に至るいきさつはどのようなものだったのでしょう。

犯人が銀行の支店長代理に示した名刺に記載されていた「厚生省技官松井蔚(しげる)」という人物は実在していました。

しかし、松井氏にはアリバイが成立していたことから、松井氏の名刺を持っていた人物が洗い出されました。

松井氏は名刺交換した人物を記録していたため、捜査は容易でした。

名刺交換したその中の一人に平沢貞道がいました。

しかし平沢はその名刺を持っておらず、「財布ごと盗まれた」と主張していました。

実際に、東京都荒川署には平沢が届け出た被害届が保管されていましたが、犯行の計画性と結び付ければ、それは平沢の潔白を証明するものにはなりませんでした。

一方で、当時の平沢貞通は友人に借金を申し出るほど金に困っていたといいます。

平沢は事件2日後に妻に6万円を渡し、銀行預金に12万円を入金していました。

この金額は、ちょうど帝銀事件で奪われた金額に相当していたのです。

平沢貞通はこの銀行預金の出所を説明することができませんでした。

戦後の混乱の中、絵画で生計を立てるのは難しく、一部には、生活するために、春画を描いた売上ではないかとも言われました。

当時一流画家だった平沢にとって、春画を描いていたなどとは、口が裂けてもプライドが許さなかったのではないかともいわれています。

さらに、平沢は犯行当日のアリバイが証明できず、過去に銀行を舞台に4件の詐欺事件起こしていたことから警察は疑いを強めていったのです。

 

帝銀事件の平沢貞道が冤罪といわれる理由

平沢貞道には犯人と疑われる状況はありましたが、どうしても犯人とは考えられない部分もありました。

事件の犯人は、毒物に関する高度な知識があると考えられますが、平沢は、毒物に関しては全くの素人でした。

そして、帝銀事件の生き残りと、模擬犯10人を混じえた面通しが行われた際、平沢貞通を犯人と断言した者はひとりもいなかったのです。(似ていると言った者が5人、違うと言った者が6人)

そして何より、95歳で病死するまで、代々の法務大臣が死刑執行命令にサインしなかったことが、何かを物語っています。

その「何か」こそ、GHQによって歴史から消し去ろうとされていた、旧陸軍満州731部隊の存在なのではないでしょうか。

警察が、この731部隊出身者50数名を捜査し、容疑者を絞り込んだところで、突然GHQ(連合国軍 総司令部)から捜査にストップがかけられたのです。

 

 

平沢貞道は完全無実なのか、それとも共犯者か?

もし、真犯人がGHQの陰謀で闇に葬られたとして、平沢の完全無罪は証明できるでしょうか。盗まれたという名刺の行方、出所不明の預金などは、どうやって説明できるでしょうか。

毒物を使った真犯人は、731部隊出身者など別にいたとして、犯行で銀行から盗まれた現金を受け取る役割として、平沢が関与していたとは考えられないでしょうか。

そうすると、盗まれた名刺、家族が証言したアリバイ、銀行から盗まれた金額に相当する預金の説明がつきます。

春画を描いて得たお金」ということが画家のプライドを傷つけることであったとして、死刑判決を受けてまで言い張ることなのでしょうか。

 

そして、判決確定から30年が経過した1985年(昭和60年)、読売新聞で以下の事実が報道されました。

・毒殺犯の手口が軍科学研究所の作成した毒薬に関する指導書に一致。

・犯行時に使用した器具が同研究所で使用されたものと一致。

・1948年3月、GHQが731部隊の捜査・報道を差し止めた。

 

 

731部隊とは何だったのか

残虐な人体実験を繰り返していた731部隊の隊員たちは、本来なら戦犯として厳しく処罰されるはずでした。

しかし、アメリカは関係者の処罰を免除することと引き換えに731部隊が行っていた細菌や毒物兵器の研究データを手に入れました。

帝国銀行の事件で、731部隊の存在が世に知らしめられるのは、何としても避けたかったのだと推測されます。

正式名称「大日本帝国陸軍防疫給水部」。秘匿名「関東軍第731細菌部隊」。初代部隊長である石井四郎陸軍軍医中将にちなんで「石井部隊」とも呼ばれます。

1933年に中国東北部(当時の満州)のハルビン郊外に設置され、その後ビンファン郊外に移転しています。

部隊には有名国立大学の医学部、医科大学の優秀な教授、医師、さらに民間の研究所の研究員ら数千人が従事していました。

細菌兵器として利用可能な猛毒細菌の研究などのため、何千人もの捕虜となった中国人、ロシア人、モンゴル人、朝鮮人たちを生体実験に使っていました。

日本人であっても伝染病に感染するなどすれば、実験の対象となったようです。

その時に現場にいた人たちの証言は、Wikipediaでも、数々の文献から引用されています。

ここで、当時14歳の少年隊員として「防疫給水部」に配属された篠塚良雄氏の証言をご紹介しましょう。

「平川三雄は、すでに特別班の隊員によって真っ裸にされ、解剖台にかつぎ上げられているところでした。(中略)うつろに開かれた眼には涙が溢れ、口をダラリと開けてハーハー苦しそうに息をはき、そのたびごとにビクビク腹を波うっていました。(中略)「少佐殿、少佐殿」平川の必死な叫びが、部屋にむなしく響きます。私の頭の中には、石井部隊に入隊するとき、「三雄と仲良くしてやってネ」と私の手に小さなくだもの籠をわたしてくれた平川の母親の顔が浮かびました。また、それ以来、共に過ごした生活が渦を巻いて脳裏に押し寄せてきました。「助けてやりたい」そう思った私の手が、止血剤を取ろうと薬物箱に伸びようとした瞬間、平川の全身をつつきまわして検査していた大山少佐の命令がかかりました。「はじめろッ」(中略)江川技手は、解剖刀を逆手に握ると上腹部を刺しました。「助けてくれーッ」平川の口からうめきがもれると、江川技手の手が震えました。「その態はなんだ」後ろから一喝を食った江川技手は、サーッと解剖刀を下にひくと、かえす刀で胸部の皮膚をさきはじめました。血は解剖台の血流しを通じて、下にボタボタ流れ出しました。「畜生!」平川の口から、血をしぼる叫びが出ました。それと同時に、解剖台上に内臓がズッズーッとはみ出て、彼は絶命しました。」 引用Wikipedia「731部隊」出典/篠塚良雄、高柳美知子『日本にも戦争があった 731部隊元少年隊員の告白』新日本出版社、2007年、90-95頁

 

 

・石井四郎について 

www.maesaka-toshiyuki.com

 

 

Youtubeより

 

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