■ 誰もが(自分)が持つ偽善を他者に見たときの不快感
自分の胸に手を当てて、自戒の念を込めて、今回は、こんな見出しで記事を書き始めます。
見た目で差別は誰でもやっている
多くの人は、蝶々やテントウムシをかわいがり、ゲジやクモを嫌います。パンダは人気者ですが、見る者の意識は「まるでぬいぐるみみたい~♪」です。
筆者だって、テントウムシなら手の平の上で観察したりしてから外に逃がしますが、クモならすぐにでも目の前から消えてほしいと反射的に殺虫剤をかけてしまいます(かわいそうに・・・)。
人間にとって心地よい風貌をしていないというだけで、この有様です。
24時間テレビの違和感
"感動の押し売り"と舞台裏のあざとい演出に批判が出ている日本テレビの「24時間テレビ」も良い例です。
「24時間テレビ」では、同情を多く集めそうな人を紹介します。
片腕が無いけどかわい子ちゃん、とか悲劇の大ケガからパラスポーツに打ち込んでいるイケメンとか・・・。
一方で、2016年7月「障害者なんていなくなればいい」との容疑者の発言で知られる「相模原障害者施設殺傷事件」が起きた後の8月に放送された「24時間テレビ」では、この事件に関して一切言及されなかったといいます。
チャリティーとしての存在意義は当然あるでしょうが、まともな理念を持っている番組とは思えません。
「社会に役立てる募金を集めるための演出」ならセーフでしょうが、「視聴率欲しさのための障がい者利用」だとしたら納得できません。健常者が喜ぶ感動ストーリーづくりのために、真実を捻じ曲げていないでしょうか?
自分たちにとって心地よいところだけ切り取って善良な人間のフリをすることに満足して、本質から目をそらし続けていて良いのでしょうか。
私たちはいったい何をすべきでしょうか。
健常者と同じように普通学級に通わせてほしいと教育委員会に要望することなんかじゃないと思います。
■ メディアの発達が「見た目の良さ」のレベル上げた
世の中には、いろんな風貌の人がいます。そりゃあ、俳優でもモデルでもないのですから当たり前です。
それなのに、近年は、スポーツでも文化・芸術分野でも勉強でも、高い能力を発揮している人のほとんどは、テレビ映えする美男美女ばかり。
なんか、世の中おかしくないですか?いつからこうなりましたか?
こんな言い方失礼ですが、かつては、見栄えがしないブサイク男女は、スポーツや勉強を頑張って、見た目をバカにしたやつらとは違う世界で能力を発揮して自己実現できたんです。
外見の評価による自尊心
容姿端麗な人の多くは、そのことで自尊心が育ち、何事にも頑張れることができて実力を発揮できるようになる人が多いのだと思います。その傾向が、さらに顕著になってきています。
逆に、容姿に恵まれていない人はというと、かつては実力で勝負してやろうと、スポーツや勉強や文化・芸術などで鍛錬を積み、自己実現することができました。
しかし、最近では、通信技術の進歩やインターネットの普及により、容姿が世間にさらされます。その結果、メディアに取り上げられるのが容姿端麗な人ばかりとなり、あたかも成功している人は皆容姿端麗であるかのような錯覚に陥ります。
ただ沈んでいくだけの不条理さ
「美人じゃなきゃ歌手にも音楽家にもアナウンサーにもなれない」、「スポーツやってもイケメンじゃなきゃファンがつかない」、「将棋や卓球や政治家や声優の果てまで、美男美女がはびこっている」・・・「僕は・私は、努力するのがむなしくなっちゃう」と。
その繰り返しが、不条理な格差を生んでいったような気がします。何が「不条理」かって?外見に恵まれない人が不満を訴えても「おまえの努力が足りないだけじゃないの?」とあしらわれるだけだからです。
「いつ、だれが、どのように、あなたを差別したっていうの?証明してみなさいよ。あなたが卑屈なだけよ。みっともない!」と。
近年は価値観が多様化しているなどといわれますが、世の中に受け入れられる外見の標準化はいちだんと進み、美男美女だけが幸せになっていくのです。
長い目で見ると、これは人間という生物の「進化」の過程ですか?私にはよく分かりません。
「容姿優先のスポーツ報道が嫌だ」などという意見がネット上に書き込まれると「それはあなたが偏見の目を持っているからそう感じるんだ」などと反論で炎上するケースが見受けられます。
こうなると、どちらが偽善なのか正論なのか分からなくなります。
■ 小人症の人がテレビ画面から消えた日
あたらめて、見渡してみると、以前は割と見かけた小人症の人を見かけることが少なくなりました。もちろんホルモン治療が進歩してきたこともあるでしょう。 一方で、こんなブログ記事を見つけました。
彼らは仕事を失い希望も失った
全日本女子プロレスの前座を小人プロレスが努めていた。彼らは女子選手といっしょに全国をまわり、雑用もこなした。
ある日、彼らは試合会場から消えた。人権団体が小人プロレスを差別と騒ぎ、彼らの職を奪った。
ある選手は言った「人権団体は仕事を奪うだけで代わりの仕事をくれなかった。」 pic.twitter.com/7QrUswiBJs— あ?るけ?(RK) (@rk_rk_is_no1) 2017年1月20日
某ブログでは、このような意見が書かれていました。
身体障害者の方がアスリートとなって頑張るパラリンピックは感動を呼び、見ている人が勇気付けられるからとても良い。 低身長症の方がショーとして見せる小人プロレスは笑い物にされてるから感動しない、不適切だからやめさせる。 何が違うんだ? ブログ「怒り屋発進!GO!」
人目の付かないところに追いやっただけ?
結局、偽善者たちが自己満足を得るために、彼らを人目につかないところに押しやっているだけではないのでしょうか?
子供向けのステージショーなどを見ると、小さな着ぐるみが活躍していることがあります。 某タレント事務所では、小さい着ぐるみに入れる小人症の人材を紹介しています。
オフィスBigboy 〜CM着ぐるみ 小人俳優(身長の低い役者) TERU〜
やはり、小人症の人は、人目に付かないようにしながら生活しているのです。
先述のブログでは、実際に小人プロレスに出演していた人のこんな発言が引用されています。
「自分が唯一輝ける場所がリングなのに、人権団体がうるさいからプロレスができなくなった。生き甲斐も仕事も失った」 「自分は人前に出てはいけない人間なのか?唯一の認めてくれる場所を失って死ねと言うのか?」 「自分たちは笑われているのではない。笑わせているのだ」 「大きいのは許されて、小人はダメなのか」 ブログ「怒り屋発進!GO!」
「自分は人前に出てはいけない人間なのか?唯一の認めてくれる場所を失って死ねと言うのか?」
この一言が胸に突き刺さります。
就職できなかった小人症の女性の話
就職活動に苦しんでいる小人症の女性のブログがありました。
専門学校卒業後も就職活動をつづけながら、途中で途切れてしまったブログ投稿。今頃どうしているでしょうか。気になります。
私たちは、いったい何をすべきでしょう。
会社に障がい者枠の雇用率を徹底させることなんかじゃないと思います。
■ 多様な個性が共存できる社会を
唐突ですが、ここで、大阪池田小学校で起きた大量殺人事件を振りかえってみたいと思います。
遺族への調書 より 「司法解剖が終わって、包帯でぐるぐる巻きにされた遺体が帰って来たとき、親子3人で川の字になって寝た」と検察官が涙ながらに読み上げた。 【わたしが出会った殺人者たち】佐木隆三著 新潮社版_大阪池田小大量殺人事件の宅間守より
筆者も一児の父親です。この2行だけで遺族の悲しみがどれほどのものであったか想像するまでもなく涙が溢れます。
いくら悲しんでも、犯人が死刑になっても、犯罪抑止力にはなりません。
殺人鬼「宅間守」が放った言葉
私が考える事件の教訓は、宅間守が言っていた言葉にあります。
当時の報道からの記憶ですが、宅間は、たしか次のような趣旨のことを言っていました。
「俺みたいなやつ(不幸な人間)が世の中にいることなどに対して、自分とは関係ないという顔で平々凡々と傍観している奴らが一番憎い。そういう連中に衝撃を与えたかった。」
大切な子どもたちを守るため、私たちは何をすべきでしょう。
「亡くなった子供たちを卒業まで在籍していたことして卒業証書を交付してほしい」などと学校に無理難題を要求することなんかじゃないと思います。
異質な存在から目をそらす社会
たとえば社会的弱者がいたとして、自分が直接原因を作っていないからといって、「私は関係ありませんから」と言い放ったらどうでしょう。
私たちは社会の構成員です。世論を形成したり、政治を正しいと思う方向に導くのも、私たち構成員の責任です。一人ひとりの力は小さいかもしれないけれど、目をそむけた瞬間から問題や課題の解決を放棄したようなものです。
弱者にとって、それは、とてもつらいことです。
反社会的なことをしてきた人と、社会的弱者とを同列に議論するつもりはありませんが、犯罪の芽が生まれたときに、このような社会には犯罪の抑止力がとても弱いと思うのです。
集団の中で異質な人を遠ざける村意識や、その異質な人に対する無関心というより存在自体から目をそらすような風潮の社会が、犯罪者予備軍を実行に駆り立てる一因なのだです。
生い立ちに何らかの問題があり犯罪者への道を進みかけている青少年に対して、社会が何をできるのか、何を示せるのかを真剣に考えていく必要があると思います。
多様な個性が共存できる社会を
犯罪者予備軍とまではいかなくても、世の中に何かしらの息苦しさを感じている人は多いはず。そのような人たちが苦しみを増幅させていったり、あるいは犯罪につながるような心理状態とならないようにするにはどうしたら良いのでしょう。
まずは、多様な個性を認め合い、多様な存在を当たり前のこととして受け止める空気が必要なのではないでしょうか。
いろんな人が当たり前に存在していて良いのです。優しい社会、温かい社会の出発点はそこだと思うのです。